抑圧

今日は日本語が母語である人について話をする。

学習習慣という言葉がある。「学習習慣が身についている」とか、「学習習慣がない」とか言う。私もときどきそういうことを言う。

学習習慣があるというのは、毎日3時間くらい勉強するとか、毎日10個ずつ英単語を覚えるとか、そういうことを言うわけでは必ずしもない。

学習する必要が生じたり、学習したいと思ったりしたとき、学習習慣がある人は上手く学ぶことができる。

それは自分の心身にあった学習の仕方を知っていたり、ちゃんと日本語文を読めたり、数式を上手く取り扱えたりするので、そこそこ効率よく、論理的思考を身につけることができるということだ。知らないことも知れるのね。

でも学習習慣がない人は、長い時間勉強できないだけではなくて、日本語文を読んで、その論理を追うことができなかったり、抽象的概念の理解が困難だったりする。数式が表現する論理が上手く理解できなかったり、やはり抽象的な概念を表現する式の理解が難しかったりするのだ。

もちろん、そんなこと苦手でもできなくても、なんら構わない。そう言いたい。でも、実際にはそういうことができないと困ることもある。

日本語が読めても、その論理が追えなかったり、抽象的思考を言語的に組み立てることに不慣れだったりすると、日本語で書かれている文章の論理が理解できなかったり、日本語で説明しようとしても、単語が断片的に口から出てくるだけで、上手く説明できなかったりする。

そうすると論理や概念を理解して、説明を組み立てるような仕事には、向かない。

残念ながら、そういうことになる。

もちろん、そういう仕事だけが仕事ではないので、そういう仕事に向かないと言っても、なんら問題はない。でも、そういう仕事に就きたいというなら、やはり困る。

他にも、何らかの事情で新しく学習する必要が生じたとき、その学習で論理や概念を理解することができないと困るということがある。

学べないのがいけないのではない。(当然だね。)学ばないのがいけないのでもない。

学ばないといけないときに学べないと困るのである。学びたくても学べないというのも切ない。

そして厄介なのは、実は学びたいわけではないのだけれど、学ばないとなれない何かになりたい時、学んでいるふりをしていて学べていないことに当人が気付けないことである。

勉強が単純に時間の消費でしかない状態、学習がただ「答え」を紙やタブレットの教材に記入・入力する作業になっている状態、そういった状態では、単純な筆記や計算の練習はできても、日本語文の論理を理解したり、数式や日本語で論理を組み立てたりすることはできない。

中学入試・高校入試・大学入試についてだけ考えても、そういったことができないと高い得点が取れない試験があるから、そういった試験での高得点や合格を望むなら、やはり上手く学べないと困る。

どんな目標を持とうが、どんな夢を抱こうが、それは自由だ。内心の自由である。

でも、その目標や夢の実現に抽象的概念の理解や操作、論理的思考が欠かせないなら、そういうことができないとそれはかなわない。

かなわなくてもいいのかもしれないけれど、かなわない状態であるのにいつかかなうに違いないと思い込んでいたり、かなわない状態であることが上手く認識できないでいたりすると、それはちょっと厄介だ。何かしらの抑圧状態に置かれているからである。

そのようになるのも仕方が無い場合もあるし、そういう状態でもそこそこ幸せに生きていけるべきである。

でも、それは学べるという状態とは程遠い。それは確かなことである。

できなくてもまったく構わないのだけれど、できないといけないのなら、できないのは困る。

できなくてもやはり構わないのだけれど、それなのにできると思い込んだ結果、いろいろなことがこじれるのは辛い。

そういうことだと思う。

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