中和

勉強ができればいい。

ちょっと不穏当な言い方だ。

「○○(が)できればいい」という言い方は、「○○」以外については顧慮しないという意味合いを表現することがある。もちろん、そういう意味合いを表現しないこともあるけどね。

でも、「勉強ができればいい」という表現は「勉強ができれば、他のことはどうでもいいんだ」という意味合いであるような気がする。不思議と。

私はそう思う。

どうしてだろう。考えてみた。

たぶん、そういう意味合いの声をたくさん耳にしてきたからだ。

勉強だけができて、他のことなんかどうでもいいというはずはない。(たぶん、みんなわかっていると思う。)

それなのに「勉強だけできればいい、他のことなんかどうでもいい」と言うなら、それは呪いだ。

自他に対する呪いである。

どうでもいいはずがないことをどうでもいいと言うのは、呪いである。

そういったことをしている人たちの生命力を減殺する。

誰でも自分がしていることについて、そんなのどうでもいいと侮蔑されたら、力が抜けていく。

自分だってそういうことをするかもしれないのに、あるいはしなければならないのに、そんなことできなくでいいと言うのは、それについて自身の不能を決定づける契機となる。

自らすすんで、自身の能力を低くする必要はあるまい。

何事についても、その不能を望んではならない。そういう呪詛は意識せずとも機能するし、それを解除するのは大変である。

それなのに自他の不能が望まれることがある。

それはいけない。

これは単なる綺麗事ではなく、切実な問題なのである。

人間の心身に機能してしまった呪詛の解除は簡単ではないので、それが機能する前になるべくそれを打ち消すように私はしている。

「それはいけない」というのは、そういう中和の仕方である。

強い呪詛には、強い中和剤が必要である。

私が「それはいけない」と強く言っているときは、たぶんそういう時である。そう思っていただきたい。

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