読ませる作文

私は国語の先生として、そこそこたくさんの作文を読む。月に100本程度。この数は「そこそこたくさん」と言ってよいだろう。

そういうことをほとんど毎月続けて、3年ほどになる。

そういう経験を通して強く思うのだが、書きたくない作文を書くのは書く側にとって苦痛だろうし、読む側もそうして書かれた作文を読むのは辛い。

辛いことを強いるのは変だし、私も辛いことはしたくない。

だから、書きたくない作文を書くのは止めにしませんか、そういう話をしている。

では、作文を書きたくなるというのは、どういうことか。

自分がこれから何を言いたいのか、よくわからず、

それでも書かずにはいられない、

そういう状態になることである。

作文に普遍的な上手いと下手があるかのかどうか、ちょっと私にはわかりかねるのだが、私にとって読みやすい作文とか、読んでいて楽しい作文とか、繰り返して読みたくなる作文とか、そういったものとそうでないものとの違いはわかる。

言いたいことがはじめからわかっている作文というのは、書いていてもつまらないし、読んでもちっとも楽しくならない。

書き手自身、これから何を自分が言うのか、よくわからない状態でどんどん書いている文章というのには、読ませるものがある。

こういうことを言っても、ただ情報を伝えるためにだけ書くという人や言いたいことがないと書けないという人には、なかなかわかってもらえない。

でも、そういう人にも、これから何を言うのか、よくわからないまま話してしまった経験というのは、あるはずだ。

そういう話し方をすると、たいてい、上手くいかない。

だから、そういう話し方は上手くない話し方だと思い込み、わかっていることだけを話そう、決まったことだけを口にしようといった仕方を選び取る人たちも出てくる。

それはそれでも構わないのだけれど、

そうすることで、これから何を言うのか、よくわからないまま話すことがなくなってしまう、できなくなってしまうのなら、それはちょっとマズいんじゃないですか。

テレビタレントとして、そういう人たちはやっていけない。いつも決まったネタしかできないからだ。そういう人たちは、ネタがウケる間しか、やっていけないんだよね。ネタの賞味期限が過ぎると、オモシロくないという評価を免れない。

何もテレビタレントに限った話ではない。

同じことばっかり、決まったことばっかり言っていると、人はそういう評価を免れないのだ。

その人を評価するのは、その人以外の人たちだけではない。

その人本人も、その人のことを評価する。

そして本人がそういう評価を下してしまうのが、いちばん怖い。

それは自分自身の知性を蔑ろにするということになる。

はじめに引いた「レビュー」は、実に読ませるものだった。

インスタントカメラを用いてフィルムの写真撮影をする。そういう仕方で世界に接したいという書き手の、切実と言って良いくらい、誠実な思いが伝わってきた。

もちろん、通販の商品レビューである上で、書き手がそういったレビューの書き方の型みたいなものを知っている様子はうかがえる。

でも、そういった型さえも、その文章ならではの味わいにしてしまえているところが、この文章の読ませるところである。

そういった味わいが出るのは、書き手がこの文章を書きたいという強い衝動をもったからだと私は思う。

文章を書く前には、どんな文章を書くことになるのか、予めほとんど何もデザインできていなかったはずである。

それでも、書きたかった。

いや、

それだからこそ、書きたかった。

そういう仕方で文章に触れている人は、優れた読み手・書き手になると思います。

はい。

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