利子

利子は禁断の果実だった。

アリストテレスも、コーランも、ヴェーダも、聖書も、利子を否定的に論じていた。

利子は人を未来に向けて稼働させる装置である。

何かをしたくて、お金を借りる。貸す側は、それを貸す代わりに、利息をつけ、返済をせまる権利を手にする。

この仕組みは、どういうわけか忌み禁じられ、長く市場の経済は停滞してきた。

ところが、15世紀イタリアのフィレンツェに、為替レートを利用し、鞘を抜く仕方で巨利を得るコシモ・デ・メディチという銀行家があらわれ、16世紀の中ごろになると、プロテスタンティズムの倫理に下支えられるようにして、ヨーロッパの市場経済が活性化する。18世紀後半のアダム・スミスによる『国富論』は、そういった人間の欲望をめぐる活動を価格(price)と需要(supply)の均衡として説明し、20世紀になるとウェーバーがヨーロッパにおける資本主義経済の発展がある種の人間の心理(プロテスタンティズムの倫理)と結びついていたことを明らかにした。その後でケインズによって、市場経済で投資家は他の投資家の心理を読んで投資するという、市場経済における投資家心理が説明された。いわゆる「マクロ経済学」のおこりである。

高校の歴史や公民の勉強をすると、そういうことがわかる。

私たちは、将来の稼ぎをあらかじめ想定し、それを実現するために奔走する。

自分の欲しいものではなく、他者の欲しいものを予想し、それを欲望する。

私たちの言う「努力」や「がんばり」というのは、たいてい、そういった力学によって駆動されている。

上手くがんばれた場合、元本と利子とを合わせた分だけの債務を履行することができる。でも、上手くがんばれないと、債務の返済ができない。

がんばれるかどうか、そういったことは当人の資質に拠ると考えられることがある。努力すれば上手くいくし、上手くいかなかったのは努力ができなかったから。そういうことになる場合がある。

でも、ほんとうにそうだろうか。

努力ができない場合というのがある。当人の心身の不調や当人と周囲の関係上の困難から、そういった「できない場合」が出来する。

私たちの世界は、ゲームを始めて時間を費やして経験値を獲得すれば、時間をかけただけレベルが上がったり、ゴールドがたまったりするようにはできていない。

時間をかけることは、成長の必要条件でも十分条件でもないことがある。

だから、債務を負って、時間をかければ、それを上手く返済できるだろうという考え方は正しくない。結構。

ケインズの言うように、私たちはマーケットで他のプレイヤーの購買動向を予測し、それにあわせて行動しようとする。そういった仕方が合理的であると考えられる。

それがマーケットで勝ち組になるということだ。

私たちの生活がすべて市場での取り引きに与するはずはないのだが、結構いろいろなことがら市場的に考えようとする方たちがいる。

市場の動向を的確に予測し、時間を経て、適切な取り引きを行えば、儲けがあがる。そういうマーケットベイスドな考え方をいろいろな領域でなさる方たちだ。

子育てとか、学習とか。

グローバル化とか、IT化とか、社会の動向を的確に理解し、それにあわせた「合理的」な仕方で子育てや学習を行えば、時間を経て、人間的成熟が果たされるはずだ。そういうことになるらしい。

例えば、グローバルな教育をしている学校に入学するとか、合理的な仕方で指導をしてくれそうな塾に入るとか、もちろんお金を払って、そういった「適切な取り引き」を行えば、努力だって必要ではあるのだが、そういう努力を経て、人は成長するはずであろう。そういうことを期待しているわけだ。

そうかもしれない。でも、そうではないかもしれない。

それはマーケットベイスドで考えても言えることだ。市場が予測不能な動きを呈したり、そもそも予測が適切でなかったりすると、期待する儲けは得られない。そうでなくても、取り引きする上で人為的ミスが起こり、損害を被るという可能性もなくはない。

それに、先に述べたように「上手くがんばれない」可能性もある。

そういった場合、期待した結果は得られないし、そういうことは本人が努力しさえすれば無条件に回避できるわけではないことがあるし、そもそもがんばれないということだってあるのだった。

そう。そういった仕方は元本に利子を載せた分だけを返済する債務なのである。

利子のつかない借金がマーケットに存在しないように、子育てや教育をマーケットベイスドな仕方だけで設計すると、子供の育ちや学習は債務の返済と同質のものになり、必ず「利子」がそれに付け足される。

それは等価交換ではない。リスクがないはずはない。

だから、実際の借銭には担保が付き物だ。

債権者は、債務者が債務履行できない場合のリスクに備えて、債務者から担保を取る。元本に加えて利子を回収することができないリスクに備えて、それを保障する手段を取るのである。

ところで、マーケットベイスドな子育てや学習において、債権者とはいったい誰のことなのか。

私はわからない。そういった考え方をあまりしないので、そういうことについて上手く想像できそうにない。でも、考えてみよう。

マーケットベイスドな子育てにおいて、子の保護者が債権者である、というケースを考える。

この場合、子が債務者がなら、保護者は子に債務の履行としての成熟を求める。教育機関等が債務者とされるなら、保護者は当該機関に子供を成長させることを求める。そういうことになるだろう。もちろんこれだけでもずいぶんと不穏当だが、そもそも債権者は、この場合、どのような担保を債務者から取るのか。子供からそれを取るにしても、教育機関等からそれを取るにしても、無理がありそうだ。つまり、これは市場取引としてマズい仕方だということがわかる。

次にマーケットベイスドな学習において、学習者が債権者である場合を考える。

この場合、債務者がその学習を支援する教育機関等であるとする。

やはり、この場合も担保の取りようがないので、市場取引としてマズい。リスクマネジメントができていないことになる。

すなわち、いずれの場合もリスクの高い取引になるのだが、仮に債権者がそのようなリスクを取った場合、対価としていったい何を差し出すことになるのだろうか。

お金だろうか、時間だろうか。

いずれにしても、リスクを取らざるを得なくなった場合、彼らはそういったものについて損失を被ると感じることになる。

ハイリスクだと思う。

それに、そういう考え方をする人は、たいてい利子という概念について、忘れている。

債権者は債務者に利子をつけて金を貸す。そういった考え方が何につけても採用されるという場合、その都度「お金をかけるからには、そのお金を少し増やしたいものだ」という心理になるのが自然である。「時間をかけたのだから、そこで犠牲にしたもの以上の見返りがほしい」と考えるものである。

もちろん、お金をかけたらそれが少しでも増えてもどってくるとか、何かに時間を費やして、そのために手放したもの以上の見返りが得られるとか、そういう有り難いシステムを作ろうと努めるのは、ある種の専門家たちの重要な務めである。

それでも、そこで言えることは「全体としてこうなると予測されるよ」くらいのことであり、個々の事象が同様の結果を呈するということが保障されるわけではない。

だから、個々の出来事について、困難なことがあったり、どうしてもできないことがあったら、それを支援したり、代わりの仕方を検討したりすることが大切なのである。

そういったことは、集団的営為である。

だから、ひとりでそういうことをしようとすると、つらい。

ひとりだけでするのは、いっけん、効率よく上手くいきそうでも、あぶない。

だから、みんなでしようね。

そういうことになっているのである。

利子付きの負債をひとりで抱えると、つらい。

そういう仕組みになってるのである。

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