2016年東京大学「国語」解説

第1問 内田樹「反知性主義者たちの肖像」

今年の東大国語第1問は、内田樹の「反知性主者たちの肖像」によるものでした。

この「反知性主者たちの肖像」という文章は、晶文社から出た『日本の反知性主義』という本におさめられています。

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この文章で、「反知性的な人間」は

「理非の判断はすでに済んでいる。あなたに代わって私がもう判断を済ませた。だから、あなたが何を考えようと、それによって私の主張することの真理性には何の影響も及ぼさない」

と周りの人たちに告げるものだ、と説明されています。

こういう人、身のまわりにいますよね。

自説の正統性を疑うことがない。相手を「論破」したがる。その場・その時のことしか考えないから、その場・その時に誤りを指摘される可能性が無ければ、平気で話に尾鰭を付けたり、嘘をついたりする…。

要は、お子様だということです。

でも、『日本の反知性主義』の24頁(東大入試問題本文として抜かれた部分より後)で指摘されている通り、そういった人たちの中には、知識人だと思われがちな人間も含まれます。内田樹先生は、ご自身の文章でそういった人たちのことを「ウッドビー知識人」と呼んでいます。

お子様やウッドビー知識人たちは、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができません。

だから、「自分はそれについてはよく知らない」と涼しく認めることは全く無いし、「自説に固執」してばかりいる。

知的な人は、そんなことはしません。

東大入試の本文にもある通り、そもそも「知性というのは個人に属するというより、集団的な現象」であるのです。

世の中には、その人がいることでその人が属する組織の知的パフォーマンスが向上するというタイプの人がいます。

マンガ『ONE PIECE』に登場する海賊「ルフィ」は、その好例です。

彼がいることで彼が属する「麦わらの一味」のパフォーマンスは劇的に上昇している。

もちろん、ルフィは高い学歴を持っていたり、社会的に評価の高い資格を有していたりするわけではありません。

でも、ルフィがいるおかげで、麦わらの一味はさまざまな困難をくぐりぬけ、目的である「ひとくくりの大秘宝」への航海を続けることができている。

そういった人たちが、「知性的」な人物だと考えられるというのです。

『日本の反知性主義』の23頁(東大入試問題本文として抜かれた部分の最後)には、こうあります。

個人的な知的能力はずいぶん高いようだが、その人がいるせいで周囲から笑いが消え、疑心暗鬼を生じ、勤労意欲が低下し、誰も創意工夫の提案をしなくなるというようなことは現実にしばしば起こる。きわめて頻繁に起こっている。その人が活発にご本人の「知力」を発動しているせいで、彼の所属する集団全体の知的パフォーマンスが下がってしまうという場合、私はそういう人を「反知性的」とみなすことにしている。これまでのところ、この基準を適用して人物鑑定を過ったことはない。

なるほど、『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』にでてくる「沖田仁美」管理官(真矢みき)のことですね。

劇中、

「事件は会議室で起きてるの。」

「所轄の仕事なんか、どうだっていいでしょう?」

といったセリフで捜査員の意欲とパフォーマンスを減殺させまくった沖田管理官はここで言う「反知性的」な人間の好例です。

もちろんこの物語は、「知性的」な指揮官としての「室井慎次 」管理官(柳葉敏郎)が捜査本部長となることによってフィナーレをむかえます。

その人がいることによって、その人の発言やふるまいによって、彼の属する集団全体の知的パフォーマンスが、彼がいない場合よりも高まった場合に、事後的にその人は「知性的」な人物だったと判定される。『日本の反知性主義』23頁

沖田管理官が本部長の任から降ろされた直後、室井管理官は捜査本部で捜査員たちに言います。

「捜査を立てなおす。被疑者はこの辺の地理に詳しい。地図にない所に隠れているはずだ。地図にない個所を教えてくれ。最近になって建てられた建物、トンネル、なんでもいい。捜査員に関わらず役職や階級は忘れてくれ。」

この室井管理官の姿勢と、直後の青島捜査官の振舞により、沈滞していた捜査本部は息をふきかえしました。

室井管理官は自身の警察官としての能力や経験を、捜査本部の活性化、つまり事件の解決可能性の増大のために費やしまいた。

私たちの生きる社会における「知性」の役割もそれとよく似ています。

知性は私たちの生きる社会を活性化させるために、社会を今よりも良い状態にするために積み増されるべきである、というのです。

知性というのは個人においてではなく、集団として発動するものだ」(東大入試問題本文より)というのは、そういうことだと私は思います。

第二問 擬古物語『あさぎり』より

 尼上は本当に命の限りだと思われなさると、姫君の御乳母を呼びなさって、「もう命の限りだと思われるので、この姫君のことばかり考えるが、私が死んだとしてもその後で、決して姫君を軽々しくなくお世話申し上げよ。もうあなたの他、誰を頼りになさろう。もし父上が生きていらっしゃったら、そうはいってと安心だろうに、誰に世話を託すというわけでもなく、私はきっと死んでしまうだろうが、その後の気がかりさよ」と何度も何度も続けてははおっしゃらず、涙もとどめ難い。

 まして御乳母は涙をこらえかねている様子で、しばらくは何も申し上げない。少しためらって、「どうしていい加減に扱おうか。あなたが生きていらっしゃる間なら、みずから姫君のもとを立ち去ることもあろうが、私がいなければ姫君はいったい誰をあてにして、少しの間でもこの世間で生きてゆかれるだろう」と言って、袖を顔に押し当て、たえがたそうな様子である。姫君は、ましてただ同じ様子であるが、このように嘆きをかすかに聞くと、辛い状態なのにまだ意識がおありなのかと、悲しさはどうしようもない。本当に、もう命の限りだと思いなさって、念仏を声高に読み申し上げて、眠りなさるのであろうかと見ていると、早くも命が絶えてしまった。

 姫君はただ母上と同じようにと思い焦がれなさるけれど、どういようもない。誰も正気が正気ではないけれど、そのままでもいられないので、尼上のご葬儀の準備をなさるけれど、自分がまっさきにと気を失いたりしがちに姫君がなさるのを、「何事も、しかるべき前世からの因縁がおありでいらっしゃるのだろう。尼上が亡くなってしまったのは、どうしようもなかろう」と言って、御乳母は、また姫君のご様子を嘆いている。大殿も、だんだんと姫君を慰め申し上げなさるけれど、その姿は生きている人とも見えなさらない。

 その夜、そのまま阿弥陀の峰という所に尼君を安置し申し上げる。尼君は虚しい煙として空に立ち昇りなさった。悲しいというのも、世の常の言い方である。大殿はこまごまお話をなさっていることが夢のように思われて、姫君のご様子がきっと大変であろうと推し量られて、御乳母を呼びになさって、「必ず姫君を慰め申し上げよ。尼上の喪が明けたら、すぐに姫君をお迎え申し上げるつもりだ。心細くない様子でおられるように」など、頼もしい感じで言葉を残しなさって、帰りなさった。

 中将は、このような出来事を聞きになさって、姫君の嘆き悲しみに思いをよせて、心苦しく、葬儀を営んだ寺の辺りである鳥辺野の草ともなってしまいたいと、そのように思い嘆いているだろう」と、しみじみ悲しい感じがする。毎晩の姫君のもとへの通い路も、もう無ありえないであろうかと思いなさるのは、誰の嘆きにも劣らなかった。姫君に仕える侍女のもとに、

鳥辺野の夜半の煙に先立たれて、そのようなほどあなたは悲しく思っているだろう。

と和歌を届けるけれど、姫君はご覧になることさえなさらないので、侍女は甲斐なく思って、その手紙を置いておいた。

第三問 蘇軾「寓居定恵院之東、雑華満山、有海道棠一株、土人不知貴也」

黄州の地は湿気が多く草木が繁っているが
そこにただ、美しい花で、本当にこっそりと、一輪だけ咲いているものがある
それはにっこりと笑うように竹の籬の間で咲いていて
桃李が山にあふれているが、それらはみなこの花に比べれば俗っぽい
理解されるのは、天には深い意があるということで、
よりによって、その美女のような美しい花を誰もいない谷間に咲かせている。
自然の豊かさはその与えられたの姿のまま現われていて、
豪華な酒食をもってそれを華やかな宮殿にさしだすことはない
その花はまるで、紅い唇が酒を口にし、頬を赤く上気させているようであるし、
そのたたずまいはちょうど、青緑色の薄絹をまとい、火照りの赤みが肌にさし映っているようだ
林は深く霧のために暗くて暁の光も遅く届きそうなくらいで、
日は暖かく風は軽やかで春の眠りも十分とれそうだ
雨の中では、その花に落ちる雨露は涙のようで悲しげだし
月の下では、人がいないのでその花のたたずまいはいっそう物静かで美しい
学者風の私はといえば、腹いっぱいで、何をするでもなく
あたりを散歩して、自分の腹を撫でている
民家だろうが僧坊だろうが関係なく
杖をついて門をたたき、竹の垣根を見る
するはそこでたちまち、その花の絶世の美しさが朽ち衰えている私を目を射て、
私はため息をつき、無言で、病を抱える目をぬぐう
狭いこの国のどこでこの花を得たのか、
あるいは、好事家が西蜀から移し求めたのか
花の根は弱く、遠い所から移し求めるのは簡単でなく、
そう考えると種を口に含んでここまで飛んで来たのは鴻鵠だろう
故郷を離れて遠くこの地に流れ着いた境遇に、遠く左遷された私は共感するし。
それで、一樽の酒を飲み、この曲を歌う
明くる朝、酔いが醒めてまた一人その花のもとを訪れたら、
きっと雪が降り乱れて美しい花は触れるのもためらわれるほどだろう

第4問 堀江敏幸「青空の中和のあとで」

※日本経済新聞2014年8月3日文化欄に掲載
本文は光村図書から出版されている『ベスト・エッセイ2015』(日本文藝家協会編)で読めます。今回、入試本文として採用されたのは「青空の中和のあとで」の全文です。
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本文の冒頭はこのようにはじまります。

「その日、変哲もない住宅街を歩いている途中で、私は青の異変を感じた。空気が冷たくなり、影をつくらない自然の調光がほどこされて、あたりが暗く沈んでいく。」

ここでいう「青の異変」とか、気温変化とか、「影をつくらない自然の調光」とかは、きっと誰もが夏の季節に体感したことがある、あの豪雨直前の現象のことです。